ゼイナ・アビラシェド『オリエンタルピアノ』

ゼイナ・アビラシェド『オリエンタルピアノ』
曾祖父が発明した四半音ピアノを巡る、"音"が主役の半自叙伝

ライター:森﨑雅世

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写真:『オリエンタルピアノ』/ゼイナ・アビラシェド 著/関口 涼子 訳/河出書房新社

見えない"音"で溢れる紙面

形のない"音"や"音楽"を、それがさも聴こえてくるように絵で表すのはなかなか難しいものです。♪マークで表したり、オノマトペを用いたり、見えない"音"を表現するためにさまざまな工夫が凝らされています。今回ご紹介する『オリエンタルピアノ』は、まさに"音"を視覚的に表現することに心血を注いだ作品です。

そのすさまじさは、物語の冒頭、主人公のアブダッラーが昨日買ったばかりの新しいイタリア製の革靴を履いて街に繰り出すシーンからもうかがえます。

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写真:『オリエンタルピアノ』/ゼイナ・アビラシェド 著/関口 涼子 訳/河出書房新社

執拗なまでに描き込まれた擬音。足を踏み出すたびに「キュッキュッ」「キュッキュッ」と鳴る革靴の音がページのいたるところに踊っています。まるで、新しい革靴を履く嬉しさや、良いことがあったアブダッラーの心情を表しているかのようにリズミカル。そう、この物語の主役は"音"なのです。

2つの都市、2つの時代、そして2つの言語の物語

物語は、60年前のレバノンの首都ベイルートと、現代のフランス・パリを往復します。

1959年のベイルート、主人公のアブダッラーはピアニストで街の調律師。筆耕の仕事もしていますが、サボってピアノを弾きに家に帰ってしまうほどのピアノ好き。けれどピアノの鍵盤は半音しか奏でられないのに対して、レバノンの伝統的な音楽はその半分の四半音で演奏されます。ピアノの外観を変えずに四半音を弾くことができる「オリエンタルピアノ」が発明できればと考えるアブダッラーの日常が描かれます。

一方、現代パートの主人公はアブダッラーのひ孫です。通訳をしていた祖父の影響で幼いころからフランス語に慣れ親しんできた彼女は、2004年に生まれ育ったベイルートからパリに移住します。子どものころを回想しながら、フランス語とアラビア語という2つの言語、パリとベイルートという2つの都市で感じたことが語られます。

この現代パートの主人公こそ、作者のゼイナ・アビラシェドさんその人。過去編のアブダッラーは、彼女が生まれる前に亡くなった曾祖父をモデルに、空想力を膨らませて生まれたキャラクターです。『オリエンタルピアノ』は半自伝的な作品と言えます。

これでもか!というほどの多様な音の視覚表現

それにしても『オリエンタルピアノ』で描かれる白と黒の幾何学的な世界は独特です。ストライプや丸や渦巻が紙面いっぱいにデザイン的にレイアウトされています。

白と黒のストライプは、そのままピアノの白鍵と黒鍵や五線譜につながっていきます。
正円の吹き出しに描かれた擬音は、頭の中で音が鳴り響くように紙面を埋め尽くします。
渦巻は、くるんとカールしたくせっ毛であり、海の波濤でもあります。

そして擬音がまるで模様のように使われていて、思わず見入ってしまいます。

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写真:『オリエンタルピアノ』/ゼイナ・アビラシェド 著/関口 涼子 訳/河出書房新社

疎外感とアイデンティティが作り出した音へのこだわり

この物語の主役は"音"と言いましたが、作者ゼイナ・アビラシェドさんはどうしてそこまで"音"にこだわるのでしょうか。このマンガを読んでいると、その源流は、彼女の生まれ育った環境にあるように感じます。

レバノンでは1975年から15年にわたる内戦がありました。ゼイナさんが生まれたのは1981年。内戦とともにあった幼少期、アラビア語で流れてくるニュースは暴力的なものばかり。そんなゼイナさんにとって、フランス語は避難場所であり、母国語になっていました。一方、レバノン人でありながらアラビア語に特有の発音がうまくできずに苦戦します。そんな子どもの頃の自分について、アラビア語の皮肉な言い回し「フレンジクークー」(フランス語のネイティブという意味)だったと自虐的に呼んでみたり、アラビア語の先生に発音を揶揄われた経験が語られたりします。

大人になりフランスに移住すると、今度はレバノン人であることを強く意識させられるようになります。それはもちろん文化や風習の違いによるものもありますが、彼女の話すフランス語のアクセントについてみんなからこんなことを言われます。「チャーミングでささやかなアクセント」「小さいイントネーションがある」「小さなメロディーのような?」。

レバノンとフランス、そのどちらでも少し浮いていた彼女の発音。それは、2つの国、2つの言語とともに生きてきたゼイナさんの中で、確固としたアイデンティティになっているのではないでしょうか。

ゼイナさんの"音"へのこだわり。それはもちろん音楽家だった曾祖父から受け継がれたものもあるでしょうが、彼女の言葉の中に含まれる小さな"音"を大切にしたいという思いから生まれたもののように思えてなりません。



2021.06.09

 
               
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