ライター:森﨑雅世
アラビア文字に魅せられ7年かけて制作されたマンガ
アラビア文字、と聞いて何を思い浮かべるでしょうか。優雅でデザイン的なカリグラフィー。横書きなのに右から左に書く不思議な文字。それとも全く想像もつかないという方もおられるかもしれません。アラビア文字は、アラビア語やペルシア語など世界中のイスラム文化圏で用いられ、なんと英語などのアルファベットに代表されるラテン文字に次いで世界で最も使用されている文字です。
文字というより美しい装飾のようにしか見えないアラビア文字。そんなアラビア文字やアラブの文化に魅せられて、7年もの歳月をかけて制作されたマンガがあります。今回ご紹介するクレイグ・トンプソンの『ハビビ』です。
数多くの受賞歴をもつアメリカのマンガ家
クレイグ・トンプソンはアメリカのマンガ家。作品数は多くはありませんが、マンガ界のアカデミー賞ともいわれるアメリカで最も権威のあるマンガ賞、アイズナー賞やハーベイ賞を何度も受賞しています。
そんな彼が2011年に発表したのが『ハビビ』です。発売されるや全米で絶賛の嵐を巻き起こし、翌年の2012年に日本語版が出版。第16回文化庁メディア芸術祭マンガ部門審査委員会推薦作品にも選ばれました。
日本語版の帯には「手塚治虫の「火の鳥」のスケール、大友克洋「AKIRA」のヴィジュアル・マジック」とスゴイ言葉が並んでいます。なんて大げさなと思いつつ読み始めたら、その言葉に嘘偽りのない、これまで読んだことのないとんでもない作品でした!
美しい絵で「綴られる」アラブの文化と死生観
「聖なるペン先からインクの最初の一滴が落ちる。一滴から川が。」
物語はこんな書き出しで始まります。
この言葉が象徴するように、流れる水のように流麗なカリグラフィーのアラビア文字が随所に織り込まれながら物語が紡がれていきます。水とアラビア文字、この二つはとても大切な物語のキーになっています。
一滴のインクから流れ出した川は、しかし干上がり、村は干ばつに見舞われます。両親によって、まだ9歳の年齢ながら、身売り同然で年かさの男と結婚させられる主人公のドドラ。手稿を書き写す書士の仕事をしている夫は、ドドラに読み書きと物語を教えます。ドドラが手にするペンの先からアラビア文字があふれ出し、デコラティブな幾何学模様をともなって、イスラム教の聖典コーランや旧約聖書といった物語の世界が紙面いっぱいに広がっていきます。
フルカラーが多い海外マンガには珍しくモノクロの作品ですが、ほんの数ページだけでこの作品の世界観に圧倒されてしまいます。細かく緻密なアラビア模様、その中に絵の一部のように織り込まれるアラビア文字、そして随所に登場するコーランや、ノアやソロモンといった旧約聖書の物語、イスラムの宇宙観や物質観、ストーリーにも深くかかわってくるお守りの魔法陣......アラブの文化や思想、死生観がこれでもかというほど詰め込まれています。
「ハビビ」の意味へとつながるラブストーリー
このようにいうと少し小難しい作品と思われるかもしれません。しかし、そんなことは全くありません。実はとてもドラマチックなラブストーリーなのです。
夫と暮らしていたドドラの家にある日、強盗が押し入ります。夫は殺され、ドドラは奴隷として市場に売りに出されます。その市場で出会ったまだ幼い少年ザム。逃げ出したドドラとザムは、砂漠に放置された小型船を住処にして、ふたりだけで生きていくことを決意する。やがて成長して思春期を迎えたザムは、大人の女性になったドドラに対して、家族の愛情を越えた欲望を抱くようになり......そんなふたりの仲を引き裂く事件が起こります。
生きていくために王のハーレムの一員になるドドラ。ドドラへの愛を禁欲的なまでに貫き通そうとするザム。果たしてふたりの愛の結末は......!? 物語のラストで明かされる、アラビア文字で書くと川の流れのように途切れることなく綴ることのできる"ハビビ"という言葉の意味に、思わず胸がぐっと熱くなります。
ファンタジーに織り込まれた人間の欲望と浅ましさ
王の住む宮殿や奴隷市場などが出てくる『ハビビ』の時代設定は、一見、アラビアンナイトのような古代かファンタジーの世界のように思えます。しかし都市や機械、工場、ダムなど、現代なのかなと思うような描写も出てきます。
快楽ばかりが追求される王のハーレム。そこに象徴されるような裕福な人間による消費社会。彼らの捨てた廃棄物が流れ着くスラム街。宮殿や都市に電力を供給するために川の流れをせき止める巨大なダム......尽きることない人間の欲望とその犠牲となるものが、ドドラとザムの物語に通奏低音のように描かれます。それは人間社会の欲望の浅ましさを突きつけられるようで、いっそうふたりの一途な純愛が際立って感じられます。
2021.05.14